― バイオリンの才能よりピアノの才能を認められ
反田さんと楽器との出会いは、バイオリンが最初でした。「2才の頃、母がママ友からバイオリンを一緒に習わないかと誘われて、3カ月ぐらい通いました。今でも覚えているのですが、先生にあなたには才能がないからやめておきなさいと言われたのです。母が悲しい顔をしたのを今でも覚えています」。
数年後、たまたまヤマハ音楽教室のチラシが自宅のポストに入っていて通うことに。そこでは「こんな天才は、見たことがない」とほめられます。「レッスンで先生が弾く和音を聴いて答える時間は、薄目で見ていて全問正解(笑)。ほめられたい欲が強いのと、母を喜ばせてあげたい気持ちからだったと思います」。
教室のエレクトーンの配置やドアの場所、優しい先生に「ファ」や「ソ」の位置を教えてもらったことなど、いまも当時の記憶が鮮明に残っているそうです。
お父様の仕事の転勤でヤマハの先生とお別れをする時には、「耳がよく、きっとピアノの才能があるので、ぜひ続けてくださいね」と言われたそう。
ヤマハ音楽教室でのこの時の楽しかった経験が、「その後の音楽人生につながったと思います」。

― プロサッカー選手の夢がピアニストに
じつは小さい頃には、家にはピアノがなく、壊れて音が出ないお母様の思い出のエレクトーンがあっただけだったそう。「僕が練習したのは、紙鍵盤でした。電子ピアノを買ってもらえたのは、小学校1年生になってからです」という反田さん。
一方で2才からサッカーもやっており「こちらはものすごく上手ではなかったので、逆にあいつには負けたくない、とかコーチに褒められるまでやってやろう、という気持ちで続けていました」。
しかし小学校5年生の時に試合中に手首を骨折。「接骨の時のあまりの痛さに、僕には痛い職業は無理だと。楽しくて幸せな職業は何だろうと思い返した時に、大好きなピアノが思い浮かんだのです」。
そこからは、本格的に音楽を学ぶために、家から近い桐朋学園の音楽教室の入室試験を受験。「演奏以外にも聴音やソルフェージュ、音楽理論の試験があり、演奏と聴音はクリアしたものの、ト音記号とヘ音記号等々が書けなくて、300点満点中18点。音楽教室の創設以来、初の入室保留となり、3カ月で合格点を超えれば入室を許可すると言われて、必死で勉強をしました」。
無事に入室後、小6で指揮者のワークショップに参加。中学校1年生の時には音楽番組『題名のない音楽会』の企画に当選し、プロのオーケストラを大きなステージで指揮するという経験も。こういった経験が重なったことで「クラシック音楽は格好いい」と思い、14才の時、職業としてピアニストになることを改めて固く決意します。
高校は奨学金を得て桐朋女子高等学校音楽科(共学)に入学。卒業後の2014年にモスクワ音楽院に首席で入学し、2017年からはポーランドのF・ショパン国立音楽大学に進学。3年ごとに拠点を変えるのは、「自分の中で決めたルールなんです」とのこと。

― 音楽の学び舎を作るためオーケストラの会社を設立
現在は、オーケストラの会社を、企業と一緒に奈良県に設立したりと、ピアニストでありながら、経営者としての顔も持つ反田さん。「音楽家の新しい在り方を提案していきたいんです。最終目標はプロのオーケストラが常設されている学校を作ることです」。
それは金融業界に勤めていたお父様の背中をみていた影響もあるのだそう。「反田家は、歴史が古くて、商売が得意な家系らしいんです。父は真面目な人ですが、母は割と自由な人で、僕と一緒にピアノを習ったり。家で練習をしないからといって、無理強いをされた記憶はありません。せっかくヤマハには楽しいカリキュラムがたくさんあるので、もし可能であれば、保護者の方も一緒に習ってみたらよいと思います」とアドバイスを。

プロフィール
1994年生まれ。2012年高校在学中に、第81回日本音楽コンクール第1位入賞。2014年チャイコフスキー記念国立モスクワ音楽院に首席で入学。2015年「チッタ・ディ・カントゥ国際ピアノ協奏曲コンクール」古典派部門優勝など華麗な経歴を持つ。F.ショパン国立音楽大学研究科在籍。現在、同大学研究科3期目を迎える。2021年ジャパン・ナショナル・オーケストラ株式会社を設立。コンサート、音源制作、オンラインサロン開設の3つを柱とした活動を行なっている。最新作は『プロコフィエフ:ピアノ協奏曲第3番作品26』。 https://www.kyoheisorita.com/
Text:Hana Hasegawa










